和傘工芸の伝承と和傘工房「朱夏」
日本の伝統を傘に伝える。「和傘」という、日本が世界に誇る代表的な民族文化を。
日本の伝統文化の一つである和傘は、かつては庶民の暮らしになくてはならないものとして全国各地で数多く生産されていました。
しかし、現在では和傘製造店が数軒残るのみとなり、細々と貴重な伝統と文化をを守り続けています。
中津でも、最盛期であった昭和の初めには、約70軒あった和傘屋は洋傘の普及とともに衰退し、江戸時代から続いていた九州で唯一の和傘屋も平成15年に高齢化等で製造を止めてしまいました。
城下町中津のシンボルとしての和傘工芸の伝統を復活しようと有志8人で朱夏の会を結成し、典型的な下級武士の家として残っている福沢旧邸の隣に、明治中期建築の家屋を改造して作業場として和傘製造を始めました。うわさは口コミで広がり、マスコミにも取り上げられ、次第に全国各地から問い合わせや注文が来るようになりました。
その後、受注量の増加に伴い作業場が手狭になったので、現在の場所へ移転しました。
最初は、試行錯誤の連続で夜遅くまで勉強しました。その甲斐あって、今では依頼や注文で忙しく製作に追われています。又、和傘をアレンジしたランプシェードや和傘あんどんなどオリジナル作品も多数あり、これからも新しいものに挑戦しつづけていきます。
中津和傘の歴史
私達「朱夏」が所在としております大分県中津市は、1587年(天正15年)黒田如水が中津城を造営したところから、徐々に城下町としての形態が整えられました。
細川・小笠原と城主の変遷をし、奥平昌也が10万石の領主として入城する1717年(享保2年)頃から、藩財政はかなり厳しいものになっていました。中津藩も財政難から特産品の奨励をする等の政策を取りました。
その中で古博多町の植木屋与一・塩町の塩屋嘉兵衛の両名が、傘製造・販売を願い出ました。傘の材料である竹・和紙・油・柿渋等が地元から調達できる環境があり、中津藩も1812年(文化9年)ごろから中津和傘の製造が始まりました。
その後、幕末になり下級武士の生活も厳しくなり、中津藩も和傘等を内職として推奨しました。武士としての気品から、「傘は人の頭の上にさすものであるから、卑しい仕事に非ず」と自らを納得させていたのであります。
和傘工房「朱夏」
大分・中津にて和傘(番傘・蛇の目傘・日傘・踊り傘・特注傘)・あんどん・ランプシェードなど、一点一点職人の手による手作業にて真心込めて製造・販売・修理を行っております。
美味創匠「朱華」
厳選した旬の素材を活かした「和」と「フレンチ」の創作料理や季節を感じる、華やかな伝統の和菓子などが自慢の飲食店舗・美味創匠「朱華」もご好評いただいております。